考えるという病気

あなたは「考えてしまう」人だろうか

なぜ1に1を加えると2なのか。なぜ人は生きるのか。人間とその他動物との境はどこかにあるのか。ルールやマナーはなんのためにあるのか。なぜあの子は真面目に勉強していられるのか。なぜあなたにはできないのか。どうしてあなたは誰にも理解されないのか。
 
その問いの答えはどこにもない。あなたは考えるほど孤独になる。あなたの未来はそう明るくはない。
 
 

考えてしまう人へ

君は社会に育てられる。生まれたときから、それが有り難いものでもあるかのように大人たちの言葉を聞かされる(大人とは、巷で悪名を轟かせている暴力団「社会」の構成員のことだ)。大人の言葉が理解できるようになると(ならなかったとしても)学校に入り、国語、数学、その他いくらかの分野について基礎教養を学ばされる。この流れに私情を差し挟む余地は用意されていない。
 
君じゃなくてもそうだ。多くの現代日本人は社会とかいう神様めいた存在から人生の大部分をプログラムされている。適合できない人にとってはいい迷惑である。
特に学校はつらい。机にじっと座って、窓を眺めながら、毎日同じような話を聞く。周りの人たちがなんで平気でいるのかよく分からない、と君は思い始める。
 
宿題なんかそれこそゴミ箱に捨ててしまいたくなるのに。
みんなは違うのかな。
そんなに大人の言うことを聞くのが楽しいだろうか。わざわざ大人を困らせるのは楽しいだろうか。目の前の大人に反抗したとして何か解決するわけじゃないのに。
 
君は何よりも、学校という仕組みが憎い。学校は1+1がなぜ2になるのか教えてくれないし、なぜ宿題をやるのかも教えてくれない。それが憎い。
 
 
勉強をあまりやらなくなった君は、いよいよ余計なことを考え始める。宿題に理由がなかったように、「理由のないもの」がどんどん増えていく。廊下を走らない。授業中に寝ない。クラスのイベントに参加する。学校に行く。大人の言うことに従う。いつか社会に出る。働いてお金をもらう。空が青い。
 
理由の喪失は長い間続くけれど、いずれ終わる。最後に、君は日常の理由を失う。
 
 
 
「社会不適合者」
 
 
 
君の何がいけなかったのだろうか?宿題をやらなかったことだろうか。
 
それは違う。悲しいことに、学校の宿題がやれない人の中でも社会に適合する人が大半だ。
ぼくたちは、世界から一つ学び忘れてしまったのだ。それは教養みたいな形の分かりやすいものじゃなくて、よく分からないもので、でも大事なもの。
 
日本語もこうして使えているし、英語は知らんけど、交換法則の成り立たないかけ算も知っているけど、もっと昔、学んでおかなければならないことがあった。
それは考えないということ。
 
考えないということ、あるいは考えないことを可能にしている何か(愛と呼ぶのかも)を、学ばなければいけなかった。考えることが考えないことの危うさを直視するのと同様に、考えないことが考えることの危うさを直視していなければならなかった。ぼくたちは考えすぎた。
 
ぼくたちは、「考えない」を学びなおす必要がある。
 

回転寿司

「考える」というのはまだ分かるけど、「考えない」というのは、わざわざカギ括弧で括るようなことですか?
 
 
この世界では答えはYesだ。つまり、ぼくにとって「考えない」は「『考える』の否定形」という弱い意味ではない。「考える」の対極にある一つの立派な行為だ。
 
 
 
何かを考えようとするとき、あなたはそれ以外のことを考えないようにする。人間がいっぺんに考えられる量はたかが知れているので、その容量を超えないように、何かを捨てて何かを置くということを繰り返さなければならない。置いたほうに対する態度が「考える」であり、捨てたほうに対する態度が「考えない」である。
何について考えるかは何について考えないかだ、と言ってもいい。考えるのと考えないのとは対等で、どちらかが欠けてはいけない。「考えない」は、重要な行為なのだ。
 
 
 
…という言葉遊び風の言い方ではなんだか実感が沸かない。理屈では正しい気がしなくもないけど、気持ちが全くついてこない。
 
というか、それ、回らない寿司を見て「地球の自転を考慮するとこれも回転寿司だ」と言ってるのと同じじゃないか。要するにただの面白い冗談だ(いや回転寿司じゃない、観測者を基準にしているのだから回らない寿司だと言う高専生もいるかもしれないが、どうか森へ帰って欲しい)。
 
理屈でなんて言われようと「回転寿司」と「回らない寿司」は明らかに違う。その気持ちがある限り、「回転寿司」が「回る」「寿司」で、「回らない寿司」が「回らない」「寿司」であるなどという合理的な暴論は成立しない。
 
合理的な論理が合理的であるのは後付けだからだ。回転寿司はあの頃は家族に連れられて行くところで、11皿くらいでお腹いっぱいなのを意地を張って15皿くらい食べてたなあとか、でも最近は10皿で十分だなあとか、回らない寿司はたしか一度だけ行ったけど落ち着かなくて味がよく分からなかったなあとか、言葉にはそういうのが先に入っている。そういうのがなかったら回転寿司は回転寿司じゃない。
 
 
ぼくにとっての「考えない」もそうなので、理屈で言ったって何も伝わらない。
変な言い方をすると、「考えない」は
 
回転寿司は回転寿司でさえあってくれればいいという祈り
 
みたいなものだ。
 

「考える」

「考える」には、なんとなく2種類ある。
 
片方は、嫌な感じのする方だ。「人の気持ちを考えて行動しなさい」とか「あなたの考えを書きなさい」とか、そういう使われ方をする方だ。ぼくたちの頭にはそういう言葉ばかり刻み込まれている。けどそれは社会の言葉だから、今は要はないんだ、さようなら。
 
もう一つの考えるとは何だろう。それは例えば、「考えるとは何か」という態度そのものだ。他人に向けて使う「考えろ」じゃなくて、自分に向けて使う「考えろ」の方だ。根源的な問いっていうかなんかそういう感じ。難しい感じがするけど、ほとんどの人はそういう問いに聞き覚えがあると思う。
 
ぼくも聞き覚えがある。
 
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
 
この問いも「考えるとは何か」と同じ種類だ、たぶん。
 
調べてみたところ、これは画家として有名な人、ゴーギャンの作品のタイトルらしいので、「かなり考える」人の言葉ということになる。ゴーギャンだけじゃない。学術書に載っている偉人は、よくそういう難しそうなことを考える。すごい人がやる「考える」だから、一番「考える」っぽい「考える」はそういうのだって感じがする。
 
芸術や哲学、自然科学を築いてきたとされる人たち。考えるのが得意なエリートたちが、人類のために難しい問題を考えてくれるのだ。
 
 
でもほんとはちょっと違うんじゃないか、と最近ぼくは思う。
 
「我々は何者か」と言った人は多分、文字通り「我々は何者か」とだけ考えたわけじゃない。人類のためだけにその問いを考えたわけでもない。そういう気持ちでは「我々は何者か」なんて懐疑的な言葉は出てこない気がする。朝6時に起きて、眠気を引きずって学校へ行って、やりたくもない勉強をやらされて、帰って宿題をやらなきゃなあと思いながらTwitterを見て、やっと宿題に手を付けたら日付が変わる、そういう生活を送っている人が「我々は何者か」って叫んだ。考えざるを得なかった。
 
知らないけど、そんな気がする。
 
少なくともぼくは、朝8時に起きて、学校に行って、やりたくもない勉強もちょっとはやって、Twitterしてたら一日終わってるし、スプラテユーンのウデマエは全然上がらんし、スマブラまるで勝てんし、いつもどこかに息苦しさを感じるので、どうしようもないことをよく考える。
 
それは、「考える」ことだけが理不尽に抵抗できる唯一の手段だと思っているからだ。面倒くさいオタクだからでも、人類に貢献したいからでもない(面倒くさいオタクだけど)。理不尽とは、極端な例を挙げれば自分が生きていることといずれ死ぬことである。もっと身近なやつなら、財布を落としたとか、嫌いなクラスメイトに雪見だいふくを片方取られたとかでもいい。とにかく全部だ。考えることだけはどんなときでも裏切らない。
 
考えることはぼくらに許された一番便利な武器だ。それは間違いない。でも結構厄介なところもある。
 
 
 
もしあなたが心の底から「考える」を必要とする悩める時が来たとして、それを行使するには原動力となる「疑う」が要る。だからあなたはまず疑うところから始めると思う。既にあるものを自分の中で破壊するためだ。破壊して、考えて、それっぽく作り変えてみて、ひとまず信じて……あなたが必要とする限りそれを繰り返す。
 
けれどあんまりやり過ぎると、初めから「疑う」という態度を取るようになる。手段と目的の逆転みたいなもので、初めのうちは切実に何かを変えるために疑っているのに、慣れてくるといつの間にか「疑う」を先打ちしてしまうようになる。変えるつもりがないのにとりあえず破壊する。
 
もっとひどくなると(「ひどい」のかはよく分からないが)、「疑う」力が一線を超えることがある。つまり、その力があなた自身に手を掛け始める。こうなると世も末という感じで、疑いたくなるものが際限なく増えていく。考えたはずのものが、すぐに次の考える対象になる。考え続けているのに何も分からない。悩みの種が尽きない。いや、なんだかもう全部に悩んでる気がしてくる……
 
そうやって、次々にものごとの理由を喪失していく。ただの論理的なエラーではなくて、日常的な感覚までがおかしくなる。料理の味があまり分からないとか、布団から出る理由が何日も見つからないとか、泣いてるのになぜ泣いてるのか分からないとか、鏡を直視しても自分の顔が思い出せないとか。致命的なエラーが起こる。
 
 
 
「考える」にはそういう罠がある。浄化するために考えていたはずが、考えることによって浄化しなければならないことがどんどん増えていく、マッチポンプ的な罠だ。
 
 
この話はおわり。
 

「考えない」

疑うことから始まるのが「考える」なら、信じることから始まるのが「考えない」だ。
 
こう言えば対称的で綺麗だけど、個人によって事情は違う。考えることが苦手(正確に言えば、考えるという行為を選択することが苦手)で何をやっても間違う人がいれば、考えないことが苦手(正確に言えば、考えないという行為を選択することが苦手)で何をやっても正解が分からない人もいる。
 
前者の人が一般にどう解決するのかぼくには分からない。でも一例を知っている。
 
 
 
 
その人は中卒で、普通の人が勉強と呼ぶものに縁のない人だった。人の言うことをあまり聞かないが、大体のことは自分の勘でなんとかなるという自負があったし、実際そういう風に社会を生きてきた。
その人があるとき仕事の都合によって、測量士の資格を取る必要に迫られた。負けず嫌いで逃げる気もなかったから、その人は勉強することを決心した。勉強への初(?)挑戦、その相手がよりによって”測量の資格”だった。
 
式変形も怪しいのに三角関数やら複素数やらをやらなきゃいけないので、はじめは理解どころか計算も上手くいかない。それは、数学という強力な権力者(そもそも学校に縁がなかったので数学を軽視してもいなかったのだ)から自分を否定されるということだった。
 
ほとんど毎日その否定を感じて、自分を疑いながら勉強し続けたのだと思う。
それ以来他人の価値観に対して少し寛容になった。
 
 
 
 
きっとその人には「疑う」が必要だったのだ。誰かからのではなく、自分による、自分のための。
 
前者の人の抱える最大の問題は「考えるという行為を選択しない癖」であって、「考えるのが下手なこと」ではない。だから、いきなり考えるのが上手になる必要はなかった。ただ考えるきっかけがあればよかった。
 
後者の人も同じだ。ぼくたちは考えないのが下手なのではなくて、考えることが得意なのでもなくて、信じることが下手なので困っているのだ。
 
信じよ、されば救われる。
 
しかし「疑う」に確固たる否定が必要だったように、「信じる」には確固たる肯定が必要だ。あらゆる自分を疑い続けてもまだ残っている、絶対に疑えないものに対する強い肯定が。
 
 
まるで夢のような話だけど本当にそんな肯定を成し得るものがあるのか。
 
 
 
ある。それは(広義の)芸術だとぼくは思う。
 
もっとも芸術は、芸術としてそこにあるわけではない。芸術はぼくやあなたの見る幻想だからだ。芸術は世間的なものの対極にあって、世間でちゃんと生きている人にとってはあまり関係がないものだ。信じるものに困らず現実を受け入れている人にとっては必要がない。
 
芸術は、信じるもの欲しさにその存在を祈ってしまった人たちの見る幻想だ。
 
それはアニメにあるかもしれないし、音楽にあるかもしれないし、絵画にあるかもしれないし、猫にあるかもしれないし、犬にあるかもしれないし、友達や、恋人にあるかもしれない。祈られたところに芸術はある。
 
祈りがなければ芸術は成立しない。芸術がすごい表現媒体の上に成り立っていても、その媒体が直接芸術を生んでいるわけではなくて、芸術を生んでいるのは見た人自身とその祈りだ。まあなんていうか、芸術の表現媒体は鏡に似ているのかも。
 
 
ぼくは芸術が強い肯定を成し得るのはそのせいだと思っている。自分が信じたいと思っていること、無意識に疑いたくないと思っていることを材料にして芸術が作られるからだ(すごい表現媒体は思いもよらない材料を持ってきてくれる)。
 
代わりに、ぼくたちは祈りを差し出す。それは夢見る少女のような、わがままな少年のような、行き場のない思いだけど、この時だけは役に立つ。
 
 
 
だから考えることに疲れたら祈っちゃってもいいと思う。どうかあなたに合う鏡を、好きな鏡を探してください。それ以外のことは、何も重要じゃない。嘘。
 
 
 
 
 
 
 
 
※この記事は
の4日目の記事として書かれていますが、めっちゃ遅れました。
 
楽にホコリが取れるおすすめ掃除用品を貼っておくのでそれに免じて許してください。↓
(本来は棒的somethingに付けるものですがそのまま使えます)